誰に?町田康に。
町田康の『私の文学史』を読んだんです。
私が町田康ファンだということを置いておいても、ひとつ創作論として参考になるのではないでしょうか。特に第四回の「詩人として」から第十二回の「これからの日本文学」ですね。
ちなみにこの本、NHKカルチャーの十二回連続講座の講義録ですので、喋ったことをライターさんが書かれているのかな、と思って今確認したらそれらしいことが書かれていないし、講座をもとに加筆、修正、編集したものですとあるのでご本人が書いているのかもしれない。結構手間やな。お疲れさまです。そのおかげか、かなり生の口調に近いんじゃないかなあという臨場感があります。
(と思ったけどやっぱりそんなわけない気がしてきたので、ライターが起こした文字を町田氏が確認して直したみたいなことかな)
第一回から第三回はですね、掴めるポイントもあるけど基本はファン向け、サービス精神、話の枕。なんでもいいけどそういう感じです。
逆に言えば第四回以降はかなり赤裸々に自分の手の内の話をしているなあという感じがあります。
で、第九回で「エッセイのおもしろさ――随筆と小説のあいだ」という話がなされます。そこで語られるのは文章を書くときの自意識の克服です。ものを書こうとすると人は自然と自意識に絡みつかれて苦しむことになるわけです。
そこでまずトークショーやライブ演奏を例にとってですね、見られることを意識すると人は当然変わってしまう。おもしろく喋れていた、うまい感じに弾けていたひとが、ぎこちない、つまらないものになってしまう。それはある種当たり前のことですねと。
一方日記はというと、基本的には誰に見せるわけでもないものです。しかし人は日記を書こうとすると、ちょっと意識してしまう。これが前にあげられた例と違うところで、文章を書くという行為の特殊性、みたいなものなのかなと私は受け取りました。
文章を書くうえで逃れられない自意識、カッコつけ、衒いのようなものから逃れる手続き、つまりこれは小説を書く前の段階を想定して手続きという言葉が使われているのですが、その手続として随筆がいいよ、と言われているのでした。
というのも町田氏自体が、文章を書くというのを(歌詞を除けば)随筆から始めたという経験から感じたそうです。で、文章を書くことの衒いとか、自意識を失ったのがプロの物書きだということを言ってます。こわあい、ってなりました。
でまあ、随筆のコツを伝授しますよ、と、これは秘伝のタレですよ、と大仰に前おきするのでこれは普通のことを言うなあ、と思って読み進めるじゃないですか。
「本当のことを書くこと」だと言います。普通だなあと思う反面、いやそれ難しいですよね、となります。事実難しいんですよという話が続きます。
そのときどきの、本当に自分の頭に浮かんだものをそのまま言葉にしてお出しするっていうのは無理ですよ。と。それにそんなことを書いたら、不快に思われたり社会的に終わったりするんじゃないですか、ということになります。それはそう。そこは技術でおもしろくやってくださいとなります。
つまり技術は大前提なんですね。そこは甘くねえよ。でも技術は習得できるものだし、本当のことを書かずにうまさだけで書いてもおもろくならないよ、と町田氏は言いたいわけですね。
社会的通念というものは結局見慣れたフォーマットでしかないので、そこにはまったまま書いてもおもしろくなるわけないよと。
自分の文章的な自意識と、社会的通念という自意識を、勝手に意識して勝手に忖度すると自分の本当に辿り着けなくなると。
どうでもいいですが、町田氏はこの十二回の講義を通して「本音」「本当のこと」というものを繰り返し言います。本当のことを、カッコつけや衒い、そういったものも外しつつ「ええ感じ」にして「おもろ」くする。それが町田氏の追求しているものなんだろうなあ。氏の小説もそうやって生まれたんだろうなあと思います。
でまあなんで自意識を外す手続きとして随筆を挟むかというと、これは氏自身も自己循環的だと言っているのですが、自意識を取り払った文章そのもの、その推進力によって自分が本当に考えている変なことに突き当たるのではないかと語られています。
そしてその自分が本当に考えている変なことというものを、どうお出しするかというと、文章の技術が必要であり、その技術を得るためには自意識を取り外さねばならない。
卵が先か鶏が先かじゃねえんだぞ、と思いますね。思った、私は。
ただまあ、実際書き続けるということしか無いのでしょうというのは分かる。循環しながらどんどん意識が深堀りされていくというのを、繰り返していくしかない。
そして自意識は常に戻ろうとするし、世間の常識や良識というもの、社会通念的な呪縛も日々積もり続けるので、休まず書き続けるしかありませんよと。
そういう日々の積み重ね、実践としての随筆という手段ですよ、みたいな話でした。
なんか騙された感じがしますね。つまり書けってことかい、となりますが、そりゃそうですよねと納得せざるを得ない。合間の理屈が騙された感ある。
でも書くうえでの目指すところは変化しますね。そこのところを伝えるためには、とにかく書くことですよというだけじゃ伝わらんということで、これだけウヨウヨ歩き回ったわけかあ、と素直な私は思います。
そして、随筆とかよくわからんけど、そして到底表に出せるものじゃないけど、なんらかの発見になるだろうから無駄ではないし、なにか小説のきっかけになるかもしれないので、やろうかなと思います。素直なので。
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