牛帝さんとナキエイドーさんのスペースを聞いていて、最近考えていたこととリンクする部分があったので覚書とする。
スペースで拝聴したのはナキさんが自分の体験から漫画にエピソードとして入れた部分があるというお話で、その作品自体も本として読んで内容を知っているので、なるほどおと感心したのが、そのエピソードがくどくなく、しかしキャラクターに厚みをもたせる説明となる塩梅で入っていたことです。
というのも、最近色々な人とお話しする機会があって感じたのが、ほとんどの人は「自分は特別な体験をした」と思っていて、それを人に見せる形にまで整理しないまま話し続けているとうことなんですよね。人生はその人の主観でしか見られないものなので、絶対値としたらみんなそれなりに(大小あれど)特別な体験をしているわけです。絶対値だから当たり前なのです。
個々の体験のインパクトで差をつけるなんてのはナンセンスで、その人の感情の動き、身体の反応、ポジティブな意味での主観のレンズを通した景色、そういうものをどう出せるかに差が出るものだと思っていて、「特別な体験」というきらきらかドロドロか分からないけどそういうものを持っているけれどその「特別」という部分に捕らわれてしまって、それをどう伝えるかに主眼が向かない人が多いのかなと思っていたところに冒頭の話だったのです。
ナキさんはひとつの経験を通して「なぜ自分がこう感じたのか」「同じように感じない人は、ではどう考えるのか」と客観視と分析をした上で、物語の構成部品としていいあんばいでパッケージングして出されているなあと思ったのです。(見当違いのこと言ってたらすみません)
とはいえ反論はあると思うんですよ。そんな分析やらなんやらしたら体験した瞬間のエモーショナルな部分が失われるでしょうが!的な。それはそう。
ただそれって、本当にショックを受けたその瞬間、人間の詩的な面がむき出しになりますよねという偶然性に頼るか、時間をおいていても当時の自分の身体感覚を生々しく再生しながら言葉にできるという特殊能力、技術を扱うかで、どっちも凡の凡の人が継続的にお出しできるもんじゃないんですよね。混乱を混乱のままお出ししてエモーショナルになるのは、天才か、怜悧極めた人にしか出来ないと思っているので。
とりあえず好き勝手言ってますけど、経験があり、それを特別なものとして人に伝えたいなら、工夫はいるよねっていう当たり前の話でした。
私もまあ、なかなか無いですわねという経験はしていると思っているけど、それを創作に出せるかというと「客観視、分析、パッケージング」の段階にないので、心の動きとか考え方の破片みたいなものをちらっと出すくらいしかまだ出来ていません。
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